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★ビルダー・ドキュメント・シリーズ★
調布トレーニング・センター会長、JBBA副理事長
温井国昭,この道を行く

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月刊ボディビルディング1978年6月号
掲載日:2018.06.29
<川股宏>

◇これは純生だ◇

 私(筆者)は、幸いなことに、一般の人より多く、様々な人に会う機会に恵まれている。"多羅尾伴内"じゃあないけれど、あるときは証券会社の営業マンとして、またあるときはボディビル同好会の会長として、そしてまた雑誌社の依頼による、このドキュメントシリーズのような人間味あふれるユニークな人々とのインタビューがある。お蔭様で実に楽しい。
 だから私自身、人を見る目は割合慣れもあってか、肥えていると自負している。
 さて、今回登場していただく温井さんとは、これまでコンテストの会場などで会っても挨拶を交わす程度の間柄でしかなかった。温井さんの独特の風貌から、ある程度、その人柄を私なりに想像はしていたのだが、最初に会った瞬間、「オヨョ・・・・・」と驚いてしまった。
「オー、カワマタ君かね。おかあさん、この人、カワマタ君だよ。ウン」と奥さんに紹介する。
 私はこの数年、よほど目上か、年上の人でないかぎり、それも初対面の人からクン呼ばわりをされたことがなかった。理由は簡単、私が中年だからだ。だから、内心、「こりゃ、後ろにひっくり返えらんように、つっかえ棒をせにゃいかん男かな。相当なツッパリだぜ、こりゃ」と身がまえながら話を始めた。
 ところが、縁は異なもの、1~2分するうちに、いろんなところで話が合い、気持が合って、意気投合するまでにそう時間はかからなかった。
 最初、私が感じたことも、温井という人が純情で、しかも一本気、事に当っては、非常な熱意の持ち主である故の気どらないザックバランの現われであることが理解できた。
「こりゃ、"純生"のような人、竹を割ったような人なんだなあ、きっと」という感じを持つに至ったのが偽らぬ私の感想であった。そして、そんな純真さが、これから紹介する温井の人生に脈々と流れ、今日を築いていく。
 この私の感想が間違っていなかったことが、後で奥さんの「主人は今でもテレビを見て涙を流す純な気持があるんですよ」という言葉からも裏付けられた。

◇父ちゃん、俺強くなるぜ◇

 JBBA副理事長、調布トレーニング・センター会長・温井国昭は、現在ジムのあるここ東京都調布市で生まれた。東京の副都心、新宿から京王線で約20分、落ちついたただずまいの建ちならぶ東京のベッドタウンである。
 そんな豊かな土地に、温井は昭和14年6月26日、8人兄弟の末っ子、すなわち、うらなり君としてうぶ声をあげた。生家は農家ではあるが、800年もの歴史があるという由緒ある家柄で、近在に寺や神社を寄進したという古文書も残っており、この土地では名の知れ渡った名家であった。
 古くからこの近在の志風は質実剛健であり、農村とはいえ武道が盛んだったという。明治維新のとき、京都の町で官軍から鬼のようにこわがられた新撰組の隊長、近藤勇もこの土地の生まれだということからも、そんな気風の土地柄もうなずけよう。
 もちろん、温井の父の性格もこの質実剛健の志風をもつ1人であった。そして、時も時、温井が生まれたのが支那事変の砲火がふきだしたすぐ後であり、小学校に入学したのが昭和20年、あのいまわしい第二次世界大戦に敗れた年であった。こんな背景のある時代だったから、当時の男の子供たちの間には、人間として最高なのは強くなること、というあこがれが日本中を塗りつぶしていた。
 だから、父の教育もきびしく、根性持った強い子供に育てようとしたのはいうまでもない。
 学校から帰ったあと、泥だらけになって遊びまわることしか、娯楽のなかった当時の子供たちは、その遊びの中からおのずと仲間同士との競争心、闘争心、あるいは協調性などを肌で感じ体験的に自分のものにしていった。その点、現代の教育ママの過保護や学習塾万能時代の子供とは違っていてあたりまえである。
 荒々しい遊びが盛んで、とくに、撃剣ごっこやターザンごっこなどが全盛のときであったから、当時、子供同士のケンカも多い。
 ある時、大きい子供にいじめられて泣いて家に帰った国昭少年に、父は、「負けて泣いて帰ってくるようなヤツは家に入るな!もう一度行って相手をやっつけてこい!」とぜったいに家に入れてくれなかったのである。そんな父をみて、国昭少年は「父ちゃん俺、強くなってみせるぜ」と心に誓ったのをいまも忘れてはいない。そしていつしか父の期待にこたえて、彼は泣かない少年に変身していった。
 父にしてみれば、一番末っ子でもあり、目の中に入れても痛くないほど可愛かったであろうが、あえて心を鬼にして、強い子供にしようときびしく育てたのである。

◇柔道との出会い◇

 敗戦にうちひしがれた日本の姿はあわれだった。食うもの、着るもの、住むところ、すべてゼロから始まったのである。温井の家庭も決して例外ではなかった。ただ農家だったために、食べものだけはまあまあだった。常に、「強くなれ」と教えられ、敗戦のどん底を体験したことは、今日の温井にとって大きな財産となった。
 やがて深大寺小学校から神代中学校へと進む。そして、中学2年のとき、「柔道部に入って強くなってやろう」と決心した。子供のときから描いていた強い男への願望が、やっと1つの形になって実現したのである。
 温井が強くなるために柔道を選んだ理由は、1つは柔道をやっていた強い叔父さんがいたこと。もう1つは、この頃、映画"姿三四郎"が好評を博しまた、空気投げの三船久蔵が健在のころで、いわば柔道ブーム、いやがうえにも少年の心を刺激した。
 "柔よく剛を制す"なんとすばらしい言葉か。とくに小柄な温井にとってはすくわれるような言葉だったのである。毎日、毎日、とりつかれたように柔道に明け暮れる国昭少年の実力は、その熱心さと平行してグングンついていった。
 しかし、なんといっても中学生ではまだ非力。残念ながら、白帯のまま日大ニ高へと駒を進めた。
 この日大ニ高の柔道は、当時、東京でもかなり強い方だった。部員も多く練習も中学時代とは比べものにならないほど激しかった。しかし温井は好きで選んだ道、決して弱音ははかなかった。学校での2時間の稽古、それが終って家に帰って、こんどは道場でまたたっぷり2時間の稽古。ついに念願の黒帯、それも初段、二段とたてつづけにとった。そして、得意技がなんと肩ぐるまであった。
「出だしの一瞬が勝負でした。1回はずすと相手に読まれてしまって、あとは絶対にかかりません。」という程、肩ぐるまは大技である。小柄な温井が体力をカバーするために努力して磨いた技だったのである。
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◇身長よ伸びてくれ◇

"柔よく剛を制す"といわれた柔道ではあったが、木村、牛山、吉松、醍醐といった大型選手の活躍によって、"技は力の中にあり"と、この伝説も徐々に変わってきた。たしかに、5kgや10kgの体重差なら技でカバーできるが、20kg、30kgの差となると、技でカバーするのは大へんである。現在のように体重別制のなかった当時、小柄な温井にとって、涙が出るほど欲しかったのは背丈と体重であった。
 この頃の温井は、今の80kgを超える体重とは似ても似つかぬ60kgを多少出た程度の体重しかなかった。だから、猛練習で二段まではとったものの、日本のトップになるという夢は、体力という、自分の努力ではどうにもならない壁にぶつかって、完全にはねかえされてしまったといってよい。
 しかし、強く逞しいものにあこがれる温井にとってスポーツから足を洗うことはできなかった。この体でトップになれる格闘技といえば、体重制のあるボクシングかレスリングである。いろいろ悩んだすえ温井が選んだのはレスリングであった。そして、昭和33年、日本大学経済学部へ進むと同時にレスリング部に入った。
 クラスはフェザー級。柔道の下地のある彼は、レスリングを始めるや、驚くほど急速に強くなっていった。柔道と違って体重制という合理的なスポーツであるということの他に、ヨーロッパから伝わったという理由もあるのだろうか、基礎体力を重要視し、体のあらゆる部分を鍛える合理的なトレーニングがふんだんにある。それがさらに温井の興味をよんだ。
 レスリングをやってみて、体の小さいという点での悩みはいくらか消えたが体力が強くなくてはならにということはどのスポーツでも同じである。背の低い者は低いなりに、強力なパワフルな体に改造しなければならないことを痛感した。
[日本大学に在学中の温井国昭氏]

[日本大学に在学中の温井国昭氏]

◇ボディビル・ジム入門◇

 基礎体力の必要性を感じていた折も折、ボディビルはすごい体をつくるという噂があちこちから入ってくる。そもそも、プロレスの英雄、力道山もあの肥満体から、ハワイで名コーチ、沖識名の指導で見事な逆三角形に改造したという。
 ここで温井は、自分の体を一応、レスリングのほかに、体力づくりという基礎トレーニングで体を強く逞しく改造してみようと考えた。そして、その頃、創立間もない日本ボディビル会館の門をくぐった。
 当時から、ボディビルは筋肉はつくが、体が固くなるから、スポーツにはかえってマイナスだ、という噂があったので、いくらか心配しながら、会長の指導でベンチ・プレスやカールなどを少しずつ重量を増やしながらつづけていった。
 数ヵ月したころ、「オョョッ、だいぶ体形が変わってきたぞ、体重も増えた。しかも体が固くなるどころか、かえって動きが敏捷になった」と感じたのである。中学時代から柔道、レスリングと激しいトレーニングをしながら果たせなかった体を大きく強くしたいという夢が簡単に実った。胸の肉、肩の肉、そして腕、脚、すべてが大きく変化した。
 大学の4年間ボディビルをやったがその間レスリングの方はフェザー級から2階上のウエルター級になった。身長は変わらずに体重は約15kgも増えたのである。しかも脂肪じゃなく、すべて筋肉による増加、パワーも以前とは比較にならぬ程ついてきた。
「いや、うれしいのなんの、体力をつけるのが夢だった私にとって、世の中がバラ色に見えました。それにしてもボディビルの効果にはびっくりしましたョ」
 こうして2階級も上ったウェルター級で、温井はみごと全国6位という輝かしい成績を上げた。一方、柔道の方もウェイト増とパワーアップで、それほど練習しなかったにもかかわらず3段へと進んだ。
「ボディビルのおかげでレスリングにも柔道にも自信がつきましたね。だからもし私がもっと上背があったら、人生も変わっていたと思いますよ。きっとプロレスか力士になっていたんじゃないですか」という温井は、この時期に完全に以前の温井から現在の温井へと体もバイタリティも変身してしまった。
 充実した学生生活も終り、日大経済学部に別れを告げる。しかし、彼の卒業したのは日大スポーツ学部だったのかも知れない。この間、後で述べるように多くの友人に恵まれる。スポーツと友人、これが学生時代に得た何ものにもかえがたい財産だった。

◇社会人への第一歩◇

「スポーツで鍛えたこの体力と根性を生かし将来偉くなるには・・・・・」と考えた。とにかく、人に負けるのが嫌いな性格である。「苦しくても、自分の努力の成果が正当に認められる世界に行こう」ということで、就職したのがトヨタ自動車販売株式会社である。
 新入社員として大いに胸をふくらませ「温井国昭です。どうぞよろしくお願いします!」と桜の咲くころ社会人としての第一歩を踏み出した。間もなく温井は、"販売会社"つまり、プロのセールスマンとして先輩、後輩もない実力の世界、要するに自動車を何台売ったか、その数でその人の評価が決まるこの世界のきびしさを知った。
 朝から晩まで足を棒にしてセールスして歩いた。いくら体力と根性で頑張っても、そんなに成績の上がるものではない。管理職だって、よく売る奴にはペコペコ、成績の悪い奴には実に冷たいものだ。売ってこない奴は不用なのだ。こんな時、温井は「泣いて帰ってくるとは何事だ!」という、子供のころよく父に云われた言葉を思い出しながら頑張った。が1年、大学時代の友人のすすめで、新しい可能性を求めて塗装関係の"トキワ(株)"というところに転職する。
 持ち前の体力、そしてトヨタ自販時代のバイタリティを認められ、やがて営業部長に抜てきされた。この頃はいくらか時間的な余裕もでき、柔道やボディビルをぼつぼつ再開しはじめた。
 そしてこの頃から、温井の頭の中ははっきりとではないが、人生とか運命について考えるようになった。
「神はすべてを平等に作っているのではないだろうか。野球の長島や王だって、確かに野球では英雄として全国民のアイドルだが、彼らがなにかのまちがいでセールスマンになったとしたら果たして日本一のセールスマンになれるだろうか。その人の特徴、持って生まれた天性、天職というものがあるはずだ。そして俺の天職は?」と真剣に考えだしたのである。
(つづく)
月刊ボディビルディング1978年6月号

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